素数を置く空間 ――ウェブサイトと短歌の融合――

「ウェブサイトと短歌の融合」という題を頂いた。本稿では「ウェブサイト」を、「PCパソコン用のウェブサイト」に絞りたい。携帯電話やゲーム機はもちろん、冷蔵庫でもウェブサイトが閲覧できる今、それぞれの特性を活かしたウェブサイトがあるが、それらは省く。また、「短歌」という語についても、「短歌作品の発表」に焦点を置き、電子掲示板などで行われる歌会や批評会も除く。その上で「融合」の可能性について考えてみたい。

稿を収めるために随分と範囲を狭めなければならないことが、ウェブサイトと短歌の可能性の大きさを示すのだろう。「インターネットで短歌を発表する」という言葉が、表現形式面では「PC用のウェブサイトで、ドットが粗く見える文字で、横書きで短歌を発表する」ことを、暗黙的に指してきたように思う。ウェブサイトでの表現の多様化とともに、もはやそのような呼び方では何も言い表せない状況に変わってきている。

私自身、短歌の発表を目的とするウェブサイトの意匠・制作の実作業を担当する機会があった。石川美南・今橋愛・永井祐との共同企画である「セクシャル・イーティング」(http://www.sexual-eating.com/)と、土岐友浩ウェブ歌集「Blueberry Field」(http://www.blueberry-field.com/)である。前者は、画面上に擬似的な本が表示され、頁を繰ることもできる。歌は一行二〇字を基本とする縦書き。後者は、大理石のテーブルをイメージした画面上で、横書きの歌が書かれたカードを並べたり仕分けたりしながら読み進めていく形式。これらの制作の経験から得た、ウェブサイトと紙や映像などとの違いを確認しておきたい。

ウェブサイトの利点を次のように考えている。

利点1 制作の容易性

インターネット上には様々なライブラリ(特定の機能を持つ「部品」のようなもの) が公開されており、利用ができる。たとえば、「セクシャル・イーティング」では、海外のウェブサイトで公開されていた、擬似的な書籍の実現のためのライブラリを利用した。私が行ったのは、左開きのライブラリを右開きとなるように改造を加えただけであり、ゼロから「開発」したというよりも、既存のものを利用して「組み立て」たという言い方が正しい。ウェブサイトの製作よりも、内容を磨くことに集中できる。

利点2 効果測定の容易性

ウェブサイトでは、訪問者数や訪問元、滞在時間、検索サイトで使用された単語などの分析が可能である。無論、訪問者数の寡多が内容の善し悪しを決めるわけではない。しかし、訪問元のウェブサイトには、企画内容についての感想や批評が書かれていることが多く、検索ワードには訪問者の興味が反映されている。また、例えば特定のPC環境からの訪問量に異常値が見られれば、ウェブサイトに機能上の不具合があると分かる。さらには、特定の指標を用いて、継続的な企画の変化を追うことも、異なる企画同士の比較をすることもできる。送った同人誌や歌集が、読まれたのかどうかさえ分からないことに比べると、この利点は大きい。

利点3 インタラクティブ性(双方向性)

マウスやキーボード、はては、マイクやウェブカメラを利用しての閲覧者の入力情報に応じて即時に処理を行い、その場で内容を切り替えたり、表示を出し分けたりすることができる。誰が見ても伝える”情報そのもの”は同じである書籍や映像作品とは異なり、閲覧者を表現作品内に参加させることもたやすい。

一方で、短歌との相性を考えたときのウェブサイトの不利な点を、次のように考えている。

欠点1 縦書き・ルビの困難

PCモニターの解像度は、印刷物のそれよりも低い。そのため、可読性を考慮すると、文字の最小サイズにも自ずと限界が生じる。短歌作品における最小の文字は詞書きにつくルビであろうが、そこから逆算して詞書きや短歌の文字のサイズを決めていくと、短歌をモニター上に縦書き”一行”で記述した場合、どうしても画面からはみ出てしてしまう。「セクシャル・イーティング」では、詞書きにルビを振ることを禁止とし、短歌自体は一行二十文字の二行書きとしたが、表現上の制約を設けざるを得ないのは、望ましくないだろう。

欠点2 同一性保証の困難

加藤治郎が「今後、ウェブ歌集に求められるのは、原本性の保証である。」(註1)と述べている通り、紙媒体とは異なり、いつでも内容を修正できてしまうウェブサイトにおいては、内容を「改変していない」ということの証明が非常に難しく、企画側の倫理感に委ねられている。また、ウェブサイトを閉じてしまえば、「原本」そのものが世の中から消えてしまうことになり、その内容の批評や引用が一切の根拠を失ってしまう。ウェブサイトを蒐集してくれる国会図書館は存在しない。そもそも、利点である「インタラクティブ性」の存在を考えれば、「訪問者の全員に同じ情報が提示されている」ということさえ、前提にできない。

利点と欠点を確認したうえで改めて眺めてみると、現在のウェブサイトに見られる短歌作品の発表は次の二つの形式に大分することができるだろう。

形式1 短歌そのものを主体とし、付加価値を加える形式

二頁一首で歌集を編むと、三割ほど歌がよく見えるということを小池光が述べた(註2)ことがあったが、この「二頁一首」に相当する役割を――つまりは装幀面や演出面を――ウェブサイトが担う形式である。凝った書体を用いたり、挿絵を添えたり、BGMを伴うことが多い。「セクシャル・イーティング」や「Blueberry Field」もこの形式に近いと思われる。歌の目指す方向に沿って、歌の良さを引き出すことに主眼がおかれる。

形式2 短歌と写真や映像の掛け算の形式

個人で撮った写真と短歌を組み合わせての発表から、所謂「コラボレーション」として複数人で企画されたものまで、インターネット上では多く見られる形式である。紙媒体でも実現はできるが、Flashによるアニメーションと短歌を掛け合わせた「テノヒラタンカ」(http://tenohiratanka.com/)など、ウェブサイトならではの表現も見られる。

しかし、字義に拘るわけではないが、右の二形式はウェブサイトと短歌の「融合」と呼べるものだろうか。表現の総体から一定量を差し引くことで、あるいは、表現の総体を素因数分解することで、いつでも短歌だけを取り出すことができる。その短歌は別の企画に登場してもおかしくなく、最終的には何食わぬ顔で歌集に収められたりするのではないだろうか。短歌には帰るべき場所があり、それはインターネット上ではなく紙の上であるという意識を、私自身も拭い去れない。

ウェブサイトと短歌が「融合」したものは、巨大な素数のようなものであって欲しい。短歌に多少の価値を足しただけでは到達できない桁数を誇り、また、それを短歌と何かの掛け算であると分離することもできないようなものだ。具体的な話には持って行きづらいが、それはウェブサイトの利点である「インタラクティブ性」を強く持つものだと想像している。例えば「テレビゲーム」を考えてみたい。誰かが遊んでいるゲーム画面を眺めていてもつまらなく、画面を消してコントローラを弄っていてもつまらない。要するに、”個々では成立しえない”ゲーム画面とコントローラによって「テレビゲーム」という総体は成り立っている。それはつまりは、「テレビゲーム」は何かによって成り立っているものではない、ということを意味する。「テレビゲーム」は総体ではなく不可分なひとつの存在なのである。「ウェブサイトと短歌の融合」とはまさにこのような段階に対して、使われる言葉であろう。

「巨大」であることや「素数」であることが良いことである、と言いたいわけではない。ただ、インターネット上には、ウェブサイトと短歌が融合した「巨大な素数」をいくつも置けるだけの茫漠とした空間が広がっているということだけは、書き留めておきたい。

 

(註1) 「短歌」二〇〇八年五月号 歌壇時評「歌集の変容」加藤治郎(角川学芸出版)
(註2) 「季刊 現代短歌雁」 第十七号(一九九一年)「鼎談・歌集をめぐって」(雁書館)

 

初出:かばん 2008年12月 「越境する短歌」