メッセージと詩――特集:沖縄を詠む

松村正直がサハリンを訪れたことを知ったのは、昨年の夏だった。樺太についての連載が「短歌往来」で展開されていた頃から、その情熱が松村を現地に導く予感はあった。それが実現したということが頭の中を一日中巡り、夜更けになって急に涙が溢れた。連載に現地訪問記などが増補された一冊『樺太を訪れた歌人たち』を手にしたいま思えば、サハリンを訪れた彼もまた「樺太を訪れた歌人たち」に連なった、という事実が心を揺さぶったのだろう。

文字通りの遠回りとなった。沖縄の歌人と話をすると、「短歌往来」二〇一三年八月号の沖縄特集に寄せられた小高賢の評論「歌の弱さと強さ」に行き着くことがある。「作品を生み出す『個』が取り囲んでいる『沖縄』に溶け込んでしまっている読後感を否定できないのだ。作品と作者の取り替え可能性といってもいい。」という箇所に代表される厳しい指摘は、それが真摯であったからこそ、メッセージ性が強くて類型的である、という沖縄の歌に対する多くの声の具現のごとく、楔として今でも深く刺さったままだ。

私自身、いまだ、沖縄に脚を踏み入れていない。忌避していたつもりはないのだが、現在に至っている。青い海や、離島などへ遊びに行くという気持ちは端からなかった。また、過酷な沖縄戦を活字のうえでそれなりに読んでいるものにとって、戦跡を辿る旅も気がすすまなかった。

小高の評論の冒頭を引いた。その要因を「後ろめたさ」ゆえとする小高は、沖縄の歴史や特徴に触れつつ論を展開する。沖縄が気になり、やはり〈情熱〉としか呼びようのない想いを持っていたのだろう。しかし、その想いは、少なくとも評論を書くまでの小高を沖縄に導くことはなかった。松村にとっての樺太/サハリンとは真逆であるが、小高の気持ちもまたよく分かるのである。

作者が読者に伝えようとすることと、作品の背後に立ち現れる作者にさえ気付いていないこと。詩はその両者で成り立つ。〈メッセージ性の強い歌〉においては、その両者が限りなく痩せて一枚の板のような存在となる。ドミノ倒しの最後の牌を指で直接倒すような、確実かつ合目的的な情報伝達に誰の心が動くのだろう。最後の牌をしずかに倒すまでの、逡巡にも似た長く不確かな牌の列にこそ美しさがある。最後の牌がどれだけ素朴でありふれた主張であったとしても、作品は豊かな詩となる――メッセージと詩の関係を問われれば、私は仮にそう答えるだろうか。

ただ、県内外で耳にする、沖縄の歌はメッセージ性の強い歌が目立つ、という声も私には〈最後の牌〉のように思える。その結論よりも、そこに至るまでの過程や因果を見つめることの方に豊かさはないのだろうか。その結論が楔として深く刺さったままにならず、より実際的に次のドミノの最初の牌を倒すようにはならないのだろうか。

〈メッセージ性の強い歌〉を並べあげて指摘することも必要ではある。しかし、そのような歌は、沖縄の歌人のどのような層が、どのような場や頻度で詠むのか。指摘を受けたとき初めて本人はそれと気付くのか。以降は同様の歌を一切詠まなくなるのか。県内の歌会ではどのように批評されるのか。ベテランと若手の差や、時代による変化はあるのか。総合誌の沖縄特集が多く夏場であったり、戦後何年という副題の元で展開されたりすることは作品に何の影響も与えていないのか。私が今書いているこの文章でさえ、指定された題目のもとで書き、依頼書内のタイトル案をそのまま用いている。自在に書いているつもりでいても、「沖縄を読む(・・)視線」がどこかで「沖縄を詠む(・・)視線」を定めてはいないのか――などを〈沖縄の固有性〉という万能鍵に頼ることなく丹念に調べる仕事が、いま必要だと感じる。

小高の遺歌集『秋の茱萸坂』に「観光のごとく巡りし気仙沼言葉しめりぬうしろめたくて」という歌がある。被災地には観光に行ったのではない、けれども「観光のごとく」と自ら呼ばずには居られないところに小高らしい倫理観が滲む歌だ。急逝さえなければ、いつか沖縄にも「後ろめたさ」を抱えて――と思うと哀しみがこみ上がってくる。

私は、読む人が沖縄を訪れたいと思えるような歌を詠みたい。来て、青い海だけを見ても、離島だけを歩いてもいい。戦跡だけを辿ってもいいし、何もしなくてもいい。それが百年後のひとりの〈松村正直〉であってもいいし、明日のあなたであってもいい。

 

初出:「現代短歌」 2017年2月号
特集:沖縄を詠む 沖縄を詠む視点