短歌と絵(本稿では写真・動画などを広く含む)について書くとき、その試みを何度か経験した者としては、それに〈理解がない人〉に向けて語りたくなる。「歌は一首で屹立しなければならない」「絵など読みの妨げだ」などと、いかにも彼らが言いそうなことはたくさん思い浮かべられる。しかし改めて思うと、彼らが具体的に誰なのかは分からず、会ったこともない。なんだか危うい。
私を含めて、例えば歌人が短歌をマイナーな文芸であると自ら言うとき、文語(口語)を過剰に意識して口語(文語)を選び取るとき、または、歌壇を伏魔殿としてそこから距離を取ることを強調するとき、錬金術のようにアドレナリンが湧く。同じことを、短歌と絵を組み合わせるときにも感じてきた。試みはいくつかあるはずなのに、自分だけが禁忌を侵しているようなあの優越感はなんだろう。残念ながら、そして幸いなことに、短歌と絵を組み合わせた作品に対する批評はほとんど皆無と言える。短歌がその完成にいたるまでの時間を感じさせないことに対して、短歌と組み合わせた作品には、見て分かる明らかな手間がある。さらに、短歌と組み合わせる対象自体は、歌人ではない別の人物に拠ることが多く、手厳しい批判の発生を妨げる。この分野には、言わば〈いいねボタン〉しかなく、それを何人が押さなかったかは可視化されない。結果、優越感には拍車が掛かり、理解がない人が一方的に仮構される。以上は私の自意識からくる浅ましい心情そのものだが、思い当たるふしのある方には、このアドレナリンは引き出し放題ではなくて、いつか高い利息をつけて返すことになるという予感もまた、ご理解いただけるように思う。
作品の受け手の視点で考えてみたい。例えば小説が漫画化・映像化されたとき、「原作の世界観を上手く表現している」「原作の方が断然良かった」などの感想を耳にする。当然ながらこれは、事前に原作を読んでいるからこそ生じる感想である。しかし、短歌と絵を組み合わせたものから、短歌だけを抜き出すことはたやすい。そのため、作品を享受する者は、その短歌自体が初見であったとしても瞬時に〈原作読者〉になってしまう。「その絵がなければどうか」「歌集で読んだらどうか」という感想を読者に抱かせやすいのは、短歌と絵を組み合わせるうえでの宿命とも言える。
しかし、考えてみると「短歌だけを抜き出す」という表現は正確ではない。歌を頭に描く場合でも、歌集のような印刷媒体を手にする場合でも、私たちは何らかの映像的背景――雰囲気と呼べるような淡いものや、紙の持つテクスチュアなど――の上に映像的に短歌を浮かべることが多い。いや、歌集を手にするときはともかく頭に描く場合は、言葉の上では描くだが、実際にはもっと抽象化された感覚だ、という意見もあるかと思う。その場合でも、自身にちょうど好いように何かが調整された上で短歌が感得されているはずだ。
「その絵がなければどうか」「歌集で読んだらどうか」と思うとき、実際には私たちは短歌を別の絵と組み合わせている。便宜上「絵」と表現しているが、音や匂いなどを含めて考えたい。例えば、お気に入りの歌人の新しい歌集をようやく手にしたとしよう。読み始める前に、好きな音楽をかける人もいれば、あえて雑踏が聞こえる場所を選ぶ人もいるだろう。まずは熱い珈琲を淹れたり、夜まで待ってあたたかい色のランプの下に座ったり――この行為もまた短歌を最大限に楽しむための創作行為に違いない。
結局のところ、短歌と絵を組み合わせた作品に真向かうときには、受け手が描く独自の「短歌と絵を組み合わせた作品」との衝突が起こりやすい。〈理解がない人〉などはおらず、受け手自身のこだわりや他者が創り出す世界への許容度合いの違いがあるだけだ。
両者のいたずらな衝突を避けるには、受け手にいかに能動的な共創体験をしてもらうかが大切かもしれない。以前、写真と短歌を透明なカードに印刷したものを制作したことがある。〈透明な〉という点が欠かせない要素だと考えていたが、その理由を言語化できないでいた。透明なカードに印刷された写真も絵も、何かを背景に置かなければ見づらく、そして背景に何を置くかでその色合いも変わってくる。そこに、受け手が作品に参加して一緒に創作してゆく余地があったのではないか、と振り返ってみて思う。
今、次はどのようなものを、と考えながらあれこれ試している。個人的には、仮想現実や拡張現実の技術と短歌を組み合わせることで、何か新しいことをしてみたい。私がこの手のものに目がないだけだが、新しい体験が既存の体験を相対化し、角度を変えて見せてくれることがあるはずだ。その意味でも、短歌と絵の組み合わせはより多く、より様々に試みられるべきだと思う。そして、多くの試みが作品相互の比較を生じさせ、そこに健全な批評文化が醸成されることに期待している。
初出:「かばん」 2016年12月号
特集:描く短歌