〈生コン〉といふ字が見えてそれよりは空緊まりゆく冬のまぢかに
柚木圭也『心音』
「生コン」という言葉がコンクリート工場の建物やミキサー車に書かれているのを確かに見たことがある。「生コンクリート」を省略した言葉だが、ここはやはり「生コン」でなければ一首が成り立たないように感じる。
「コン」という硬質な響きのある言葉に「生」という柔軟性を想像させる言葉がのっかっているのが面白い。そもそもコンクリートが生であるとは、どういう意味なのか。単にまだ固まっていないという意味なのだろうか。
いずれにせよ、コンクリートが生かどうかに意味がある世界がある。生コンクリートを生コンと縮めることが当然の世界がある。自身の日常とは異なるが、この世界を無限に建造していく存在が街角がめくれたように見えていて、それこそコンクリートのうちっぱなしのように一切が常に未完成であり、変わりゆくことが示されている。
生コンという字を見てより、空はきゅっと引きしまり、秋は冬へと固まりゆくように感じる主体の縹渺とした心象が伝わってくる。
柚木圭也の歌には、見ている対象が少しばかり遠くにあるように思える特徴がある。
フルーツゼリーすくひつつ見ゆ大山勤ダンススクールに動きゐる影
〈巣鴨59〉てふ名を与へられしパーキングメーター点滅しをり、真ひるま
きっと、「大山勤ダンススクール」に通うこともなければ、「巣鴨59」のパーキングを利用することもない。それらは具体的な名を持ちつつ、生コンと同じぐらい主体の日常から遠くにある。
夏と秋だけを繰り返す沖縄の離島に住んで数年が経つ。いつまでも冬が来ない島で私は毎年この歌を口ずさみ、私だけの冬を――決して触れ得ない冬を、間近に呼び寄せるのだ。
初出:「梧葉」 2016年 51号 秋号
特集:季節の秀歌