便座だけだ十分前に締め切りを過ぎた私にあたたかいのは
山田成海『岡大短歌 二号』
パンパカパンは何が開いているんだろう、パカのときに。 朝ちょっとだけ泣く
橋爪志保『京大短歌 22号』
廃線を歩いていった記憶あり あれは廃線、人生じゃない
廣野翔一『短歌男子』
Mr. この再起可能な青春を徒歩で渡ってきた Children
二三川練『象 第三号』
二十代歌人が大学生時代に詠んだ歌からテーマである〈ヒューモア〉を感じたものを引いた。一首目は、レポートの提出にでも遅れたのだろう。このようなときでも、人は用を足さねばならない。あるいは単に一人になりたかったか。便座にこころを寄せる姿が微笑ましい。同じこころ寄せが「パンパカパン」という賑やかなだけでどうでもいい言葉の、どうでもいい語源に及ぶ二首目。心底泣きたいことがあるからこそ、そこから目を逸らそうと思考は勝手に旅をする。三首目は生真面目な様が滑稽との境界を漂う。意識して重ねようとしないからこそ、思考は勝手に人生を廃線に重ねてくる。その意味で二首目と対をなす、共に人間臭さが溢れる歌だ。四首目は世代を選ぶ歌だろうか。「Mr.Children」という音楽バンドの、大人なのか子どもなのか分からない名称を茶化すようでいて、喪うことを疑わない青春性に強く恃む。「Mr.」未満「Children」以上のモラトリアムを何度も繰り返すように。
これらの歌が、学生短歌会の発行誌や、本人の写真を強く押しだす『短歌男子』に掲載されていることが読みに与える影響は大きい。例えば、各作者がそれぞれ倍以上の年齢であったとすればどうなるだろう。
その頃となると、社会における締め切りは過ぎてしまえば全てを失う。きっと便座は冷たいままだ。朝から「パンパカパン」に逃避するとき、もう号泣だけでは済まない。一定の年齢を越えて廃線を思い出すなら、それは人生そのものだ。そして私たちは「Mr./Ms.」の先を、不可逆に転がり落ちていく。どこへ?――そう、一切を根こそぎ救いうる〈老いのヒューモア〉へと。
しかし、〈若さのヒューモア〉と〈老いのヒューモア〉を結ぶ線分を脱し、我が道をゆく若手歌人もいる。
せつじょくってことばがあるのか(いくさだねえ)雪がみさいるでみさいるは風で
望月裕二郎『あそこ』
車もひとつのからだであって(えんやこりゃ)へたなところはさわれやしねえ
千本の前足で這う観音がわらわらといる夕刻の谷
吉岡太朗『京大短歌 21号』
恒河沙阿僧祗那由多不可思議腕立ての弥勒のあごに削られし床
『京大短歌 22号』
共に本稿執筆時点では二十九歳の歌人だ。望月の歌には括弧書きの声が頻繁に登場する。これらは発露に至らないこころの声であるようでいて、どこかバラエティ番組における客席とのコールアンドレスポンスを思わせる。意味の取りづらい歌であるのに、繰り返し読ませるリズムがあり、歌舞伎の大向うよろしく「いくさだねえ!」「えんやこりゃ!」と読者は自分のものとして掛け声をあげてしまう。吉岡の一首目は「戦争と化身」と題する仏教世界と現代の戦争を重ねた連作から。二首目は、菩薩を目指してひたすら筋肉を鍛える弥勒を詠んだ「弥勒上生異聞」から引いた。綺想譚と括ることも可能だが、普段は「様」をつけて呼ばれる観音や弥勒の、見てはいけない姿を見るようで、こちらの既存概念を挑発してくる妙な快感がある。
冒頭の山田成海から二三川練の歌は、決して人間臭さや「もののあはれ」のような〈ヒューモア〉としての効果効能を狙ったものではない。少なくとも若手の歌においてユーモアを〈ヒューモア〉に引き上げるのは読みの領分であり、勝手なのかもしれない。だとすれば、望月裕二郎や吉岡太朗の磨き上げられた芸のような歌に、〈ヒューモア〉を見る者がいてもいい。何に感動するかについて、人はもっとも我儘でありたい。
初出:角川「短歌」 2016年10月号
特集:短歌のヒューモア