『讃岐典侍日記』 ――ジャパニーズポエム

笛のねのおされし壁の跡みれば過ぎにしことは夢とおぼゆる

讃岐典侍(さぬきのすけ)藤原長子(ふじわらのながこ))『讃岐典侍日記』

平安時代に綴られた『讃岐典侍日記』を読んだのは、高校生の頃だった。同時代の女性による日記文学には『蜻蛉日記』(藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは))や『更級日記』(菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ))など、いくつかが挙げられるが、そのなかでは目立たない存在かもしれない。古文に慣れるには何か一冊を通読するのが一番だと予備校の先生に勧められ、素直にそれに従った。授業のテキストに収められた作品は様々であったが、ちょうど習ったのが『讃岐典侍日記』の一場面であり、講談社学術文庫版が入手しやすかっただけで、手にしたのは偶然にすぎない。

敬慕してやまない堀河天皇が、重い病に苦しみながらその死を迎える上巻は壮絶であるが、喪に服す気持ちも晴れぬままに、新帝(鳥羽天皇)の命で出仕する讃岐典侍の、下巻全体を包む深い悲しみが読みどころだろう。居たはずの人が居なくとも、宮中の日々は進んでいく。

掲出歌は讃岐典侍が幼い新帝にふすまの絵を見せて回るときに、故・堀河天皇が壁に楽譜を貼っていた跡を目にして詠んだ一首。そこにあったはずの楽譜と豊かに響いたであろう旋律は、そのまま堀河天皇の不在を強く意識させる。一切を夢だと思わせる力は、反作用的に一切が現実であることを突きつけたはずだ。

二十年ほど前に読んだ『讃岐典侍日記』が今でも記憶に残るのは、それが初めて通読した古典であったからだけではなく、学校での出来事も関係している。

中学三年生の頃に阪神淡路大震災で、高校生の頃に不慮の事故で、私はふたりの同級生を亡くしている。学校教育というシステムの中で、最もあってはならない生徒の死。深い喪の底にあっても、日々はとどまることなく過ぎ、予定通りに授業のカリキュラムは消化されてゆく。それに疑念を抱くときには私は讃岐典侍であったし、それを忘れるときには、泣き腫らす讃岐典侍が遠く眺めた、宮中を忙しなく行き交う人々だったのだと思う。

堀河天皇の歌に「千歳(ちとせ)まで折りて見るべき桜花(こずえ)(はる)かに咲き初めにけり」(『千載和歌集』)とあるように、大切なものは永く残したい。その死を綴ったことで、讃岐典侍は堀河天皇がたしかに世にあったことを、時代を越えて伝えることができた。同時に、彼女のこころのあたたかさも日記の中にいつまでも籠もり続ける。人の死が昔も今も変わらないこと、そして、古典を(ひもと)くことにどのような意味があるかを、家と学校と予備校を結ぶ三角形状の小さな世界で、私なりに学んだのであった。

 

初出:「NHK短歌」 2016年10月号
「ジャパニーズポエム」欄