横へ横へと ――黒瀬珂瀾『蓮喰ひ人の日記』歌集評

アイルランドと英国滞在の13ヶ月を歌日記として綴る著者第三歌集。

そも吾はいかなる船か壱萬(キロ)飛びきて語る夜のザブングル

英国での一首。省略した詞書(以降同様)には「日本人オタクのオフ会」に参加したとある。往年の戦闘メカを引き合いに自らの旅を見つめる黒瀬らしい歌の存在が、本歌集では不思議な安堵を齎す。第一歌集の「天を突く塔」や第二歌集の「ドルアーガの塔」を縦への志向と呼ぶなら、本歌集は横への志向を持つ。

ひとりひとりに三・一一はあるだらう地下鉄(チューブ)に誰も(まなこ)を閉ぢず

いちにんの肺の燃ゆれば一人(いちにん)の九・一一に雨降る黒く

東日本大震災後の四月の歌と、ビン・ラーディン殺害の報を知った後の歌。大きな出来事を大きな集団にではなく、個々人に帰還させる意識は、異国の地にあって様々な人に囲まれていることに拠るのだろう。同じ地球上を生き、しかし置き換えのきかない個人が強調される。その究極の存在が誕生した子であり、その親たる黒瀬自身だ。

首筋をのばして拭ふいくらでも(よご)よ俺が日本語で拭く

集中にはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が適時引用される。

「鼻水色とジョイスは言つた」海原を指す老人の百年の笑み

『ユリシーズ』一冊で滅んだダブリンが復元できるとして、この克明な歌日記は一体何の喪失を予感したのか。その問は読者だけの物ではなかろう。

児を背負ひさまよふ機内暗きかなわが次に立つ地を待ちながら

帰国後も旅は続く。どうか――どうかよき旅を。

 

初出:「うた新聞」 2016年3月号