佐佐木幸綱の一首

俺は帰るぞ俺の明日(あした)へ 黄金の疲れに眠る友よおやすみ

佐佐木幸綱『夏の鏡』

歌集の読み方は人それぞれだが、若輩でなければできない読み方がひとつある。先行者たるベテラン歌人が、自身と同じ年頃にどのような歌集を残したのかを辿るという読み方である。同じだけの歳月を生きているという前提があって初めて感じられる凄みや共感はそのまま、遅れて生まれてきて本当に良かったという、書物の一読者としての純粋な喜びに繋がる。

歌集『夏の鏡』が発行された一九七六年七月時点での佐佐木幸綱は三十七歳であり、どうやら今の私の年齢に近い。同年春に結婚しているが、歌集の多くはそれまでの作品であろう――などと年譜と照らし合わせて歌集を再び繙くと、学生短歌会に所属していた十年ほど前に通読したときとは異なる緊張感にひりひりとする。ああ、この歌集は同世代の歌集(・・・・・・)なんだ、と。

掲出歌は連作「盛春日々抄」に収められている。「五月某日夜 京都府の私立高校で教師をしている旧友Sと会う。四条河原町で飲み、彼の家で飲む。」と説明の付された場面を締めくくる一首である。「子の寝顔を酔いたる俺にのぞかせて二十歳(はたち)の時の笑いを笑う」「もう一つの俺の生きざま今宵はも身近に思うするめなど嚙んで」という歌と合わせて読むと、状況は描きやすいだろう。李白の詩からの引用が多い歌集であることも手伝って、ふと「魯郡東石門送杜二甫」の一節を思い出す。「飛蓬各自遠 且尽手中杯(風にさすらう蓬のごとくそれぞれに遠のいてゆく、いまは手のなかの杯を飲み干そう)」。李白と杜甫の別れを描いたものだが、両者が再び会うことはなかった。一首からは、気の置けない、それでいてそれぞれに異なる生を選んだ親友同士の、取り戻せない時間という縦軸と、選び直せない選択という横軸の描く格子模様が浮かぶようだ。「俺」にとっての「明日(あした)」も、その格子の一区画に過ぎないが、「俺は帰るぞ」と自身を鼓舞するような口調に強い選択の意志を感じさせる。大いに飲んで傍らで眠りこける友に「黄金の」疲れを見ることは、どこか温かな毛布をそっと掛けてやるような慈愛に満ちている。

歌集の掉尾を飾る一首は「父となりたる友へ他界のわが父へ歌う、四月はしろがねの午後」であるが、「父となりたる友」に、子の寝顔を見せてくれた旧友が強く意識されていると考えて間違いないだろう。そして――ここからは、一読者としての楽しい想像の版図であるが――佐佐木幸綱の代表歌に数えられる「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色(こんじき)の獅子とうつれよ」(『金色の獅子』一九八九年)にも掲出歌との繋がりがあるかもしれない。父子の関係性や、「黄金の疲れ」と「金色(こんじき)の獅子」という輝く色を纏うことを共通点に、生きざまの異なる旧友と佐佐木幸綱の、精神的重なりと邂逅を感じたいのである。

 

初出:「心の花」 2016年1月号