「鹿首」発表の論に手を加えるかたちで構成された評論集。既刊評論集の中では『短歌の生命反応』(北冬舎・二〇〇二年)に接続する一冊と言える。
短歌を巨大で長命な「生命みたいなもの」と捉え、「人という酵母菌たちに短歌を詠ませている」とする高柳の論は、一見独特なようで、短歌に関わる誰もが言外に感じてきたことだろう。
一・二章では、歌における「トマト」や時間表現の変遷を追う。既存の歌の影響を受けたり、そこに歌人独自の工夫が加わったりするなかで、言葉や歌が生命のように進化する様を辿る。
三章「短歌の身体 身をくねらせる短歌さん」は前掲書収録の「短歌の生命反応ノート 3 動く装置」を発展させた章となっている。一般的に「器」に例えられる短歌を、より自発的に活動する「身体」と仮定し、短歌がなぜ短い表現のなかで散文を越える表現を生み出せるのかを解き明かしていく。
四章では高柳が収集した短歌を中心とする言葉のデータベースを用い、「醸す」という言葉がどのように使われているかに始まり、菌類や情報の扱われ方へと視点を広げてゆく。あらゆる事象がまとう解釈やイメージを引き継いだり、そこに新たなものを加えたりする存在としての人間を見出す。「酵母菌」としての人のあり方を再確認する、同書を締め括る章となっている。
高柳の既刊評論集を振り返りつつ、データベースの収録歌数の充実に頼もしさを感じる。特定の言葉を鍵とした歌のアンソロジーや分類の幅は、高柳の強力な武器だ。一方、収集基準が明確ではないため、言葉の使用頻度や傾向分析となると苦しさも感じる。例えば、高柳はデータベースには「トマト」を詠んだ歌が72首あるとし、そこより牧水の歌を一例に挙げる。牧水は「トマトの歌」と題する右の一首を含む7首の連作を詠んでいる(うち6首にトマトを指す語あり)が、これらは72首に含まれているのだろうか。その場合、72首の何割がどのような歌かを分析しても、偏りは大きい。そうでない場合、データベースの収集基準が気になってくる。高柳の評論はいつも、従来の評論にはない視座をもたらしてくれる。それだけに「論拠に十分な数とは言えず」という断り書きが逸する物は大きい。データベースの再整備と、検索・抽出以外のアプローチに、評論活動のさらなる深化が期待される。
初出:角川「短歌」 2015年11月号