しろがねの機体の待機しておれば北海道とはやはり遠いな
帯広に行く場面を詠んだ歌であるが、「遠いな」と、「な」で終わっていることに驚く。例えば「遠いね」という、語りかける対象を(時には過剰に)意識した口調は案外短歌に多いが、「遠いな」には心情がそのまま表されているようだ。ひとりごとを聞いてしまったかのような特有の感覚が、読者に残る。
秋風は春ほど甘くなきゆえにきちっと言いぬ 学校へ行きな
学校に行くのを躊躇う子への語りかけであるが、こちらも「な」で終わっている。なにより「学校へ行こうね」ではないことに信頼を感じる。学校へ行くことを絶対とは思っていない。けれども、行くべきだと伝える。それがどれだけ厳しいことかを十分に知っている。だからこその優しさを感じる。
この子ってこういうところがありまして振り仮名みたいな母なり吾は
親ならば、こういうところがない子であると伝えたい。けれども、先回りするように、子の欠点を伝えてしまう。振り仮名のように馬鹿丁寧に。冷静に自己を見つめる眼差しが印象深い。
作者の特徴とも言えるこの眼差しが、物へと向かうと次のような歌になる。
限りなきひかり寄り添うボトルには水の期限が記されており
ひかりに照らされて輝くペットボトルに賞味期限が記されているだけのことである。しかし作者は、短歌なら「だけのこと」からはみ出すものを掬いとれると知っている。例えば消費文化への批判などではなく、すべての物事には区切りやおしまいがあるという真っ当な残酷さや美しさを噛みしめたい。
林という文字に木枯らし匂うころ書くための手を温めており
君乗せる電車を待ちおり冷えてゆく靴の先だけ日向に入れて
手をさする。爪先だけを温める。その先端感覚がぬくもりを引き立たせる。端正な歌が並ぶ歌集の、その欲のなさに、どうかこの人のすべてを温めてあげてくださいと、祈りたくなってくる。
生と死を量る二つの手のひらに同じ白さで雪は降りくる
父の病を詠んだ連作より引いた。生か死か。運命を占うような仕草の一方で、生と死がどれほど異なるものなのか、雪の白さにふと疑わしくなる。
ここにも確かな眼差しと、しんじつ温められるべき手のひらがある。
初出:角川「短歌」 2015年5月号