こんな遊びがある。
ある人物名が書かれた紙を額に貼る。その人物名は周りの人には分かるが、貼られた本人には読むことができないので、分からない。そこで「はい」か「いいえ」で答えられる質問を積み重ねて推理を深め、その人物名を当てる。いかに少ない回数で正解に辿り着けるかが見せ所である。
今、ある男の額にある人物名が書かれた紙が貼られているとしよう。男が最初の質問を投げかける。
――私は実在の人物ですか?
――いいえ。
――では、私は英語を話すことができますか?
――もちろん。流暢に。
――ところで、私は子どもたちに愛されていますか?
――どうでしょうか。熱狂的なファンは、大人に多いでしょうね。
質問はこんな流れで続いていく。「はい」か「いいえ」以上の答えを巧みな話術で引き出すことと、周りの人の表情をよく観察することがコツと言えるかもしれない。
――わかりました。19世紀末から20世紀初頭のロンドンを舞台とした小説に登場する、恐ろしいほど明晰な頭脳と行動力を兼ね備えた紳士。そう、私はシャーロック・ホームズですね。
男は自信たっぷりに、額に貼られた紙を剥がして確認する。しかし、そこには「ジェームズ・モリアーティ」と書かれていた――と、こんな感じだ。
私はどのような人間なのか。つまり〈私は誰なのか〉。その問いを重ね続けるという意味で、この遊びは私にとっての短歌と通うところがあるかもしれない。自作を振り返ってみると、そのような歌が多いように思う。
小躍りをするとき吾は王であり国花制定権さへ有す
友の名で予約したれば友の名を名告りてひとり座る長椅子
ぼくを眠りぼくを起きるをくりかへす云ひつけられたことのごとくに
ただ、これらの歌は私の中から湧き出たものではない。いずれも私の背後から突き刺すような声として、やって来たものだ。私はその声を慌てて手帳に書き留め、どうにか一首にまとめる。ある程度の歌数が集まった後で、ラベル代わりの題名をつける。そして、手帳だけに記しておくのはどうにも心許ないので、頂いた機会に紙に刷りあげ、忘れないようにする。
私はどのような人間なのか。つまり、私の額に貼られた紙には何と書かれているのか。さしあたって、そのことに興味はない。私には何も貼られていない。
知りたいのは、〈私は誰なのか〉と繰り返し問い、解き明かそうとする者がいったい誰であるか、ということだ。私は誰かの額に貼られている一枚の紙切れにすぎない。歌をはじめるまでは、気付けなかったことだ。
〈私は誰なのか〉、ではなく、〈誰が私なのか〉。それが知りたい。モリアーティならば、あるいは、ホームズならば、たとえ文字通り紙の上の存在であったとしても、自己を騙るために繰り返される質問から見事に質問主を推理し、〈誰が私なのか〉を解き得ると思うのだ。問いの立てかたや繋げかた、場合によっては、周りの人が述べる「はい」か「いいえ」以上のものごとと、その表情さえも手がかりとして。
〈表現したいもの〉とは、決して、復活祭の日に庭に隠す(それも、必ず見つかるように)たまごのことではないのだろう。先述の遊びの譬えを重ねるのであれば、この世界がたまごの中の存在であることに気付いたうえで、では、いったいどの世界の庭に隠された存在であるのかを問う営為こそが、表現するということではないか。
その意味において、岡井隆の言うところの「作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」という、読み手から作品に撃ち放たれるベクトルと、私が自身の歌を拙く重ね続けることのベクトルとは、同じものだと感じている。
われを成すみづのかつてを求めつつ午睡のなかに繰る雲図鑑
乾びたるベンチに思ふものごころつくまで誰が吾なりしかと
携帯電話を君と交換して幾日 吾からの電話のみ吾は取る はい
私の背後の一人の人――あなたは今、これを読んでいるかも知れない。そして問いを重ねることで、いつか自信たっぷりに「そう、私は――ですね」と、私の名前をあげるかもしれない。そのことを、周りの人の誰もが正解と認めるかもしれない。
私だけが気づいているのだろうが、あなたは私ではない。だから、あなたが私をのっとる前に、その声を紡いでつくる歌の糸をほとんど力任せに織りあげて、あなたが誰なのかをつきとめたい。
たとえあなたもまた、誰かの額に貼られた一枚の紙切れに過ぎないとしても。
初出:「井泉」 2015年3月号
リレー小論:今、私が表現したいもの