境界の表面張力 ――ながや宏高作品批評

  

「水性ファンタジー」は、水に関する歌で揃えた〈水しばり〉の一連である。同様の試み自体はよくあるが、なかなか成功は難しい。例えばスポーツで考えてみると、フットボールを初めて見た人は、その面白さよりも何故〈足しばり〉なのかばかりが気になるだろう。どのようにしてルール(しばり)の内側に読者を引き込み、選手のひとりとして楽しませるか。その点に問われる力量が、ながや作品では十全に発揮されているようだ。

水面に浮かぶお皿のバランスを崩したがっている僕の指

もう元に戻らないこと受け入れてふやけた本のページをめくる

川面から空に向かって舞い上がる虫と僕との違いについて

一首目。食器を洗っている場面だろうか、偶然に浮いた皿を沈めてしまうことへの衝動を感じている。自らの意志を離れたような「僕の指」が印象深い。二首目。雨に濡れたのか、何かを零したのか、波打つ本に一応の納得をしつつめくる主体の心持ちが窺われる。三首目。川面を飛び交う虫と自らにどれほどの差もないという乾いた認識が寂しい。空中と水中の差は大きいが、虫も主体も同じ側にいるという意味では同じ存在だ。

いずれも水しばりではあるが、境界への意識が通底している。沈めばもはや浮くことのない皿、ふやける前にはもどれない本、虫と自身を隔てるもの(あるいは括るもの)。そこにながやの主題がちらりと覗く。つまり水しばりはあくまで手段であり、それに気づいた時には読者はすでに作品の中に引き込まれている。

ながや作品の特徴として、ですます調の使用があげられる。

水紋をつくって消えていく雫にもたましいは宿っています

イモムシは食べられませんでもエビならおいしく食べることができます

いくらでも聞いていたいと思いますメロンソーダのような嘘でも

一首目。一滴の水に命を見る優しさがある。二首目。昆虫類と甲殻類は確かに大きな差はないように思えるが、イモムシを食べたくないのは何故だろう。あるいは、エビを食べることの方がおかしいのだろうか。三首目。人工物の象徴のような緑色のメロンソーダ。言葉が偽物であることに気づきつつ、その甘さに浸ろうとする姿に、炭酸水のちりちりとした感覚が重なる。

では、これらの歌のですます調は、一体だれに対して〈ですます〉なのだろうか。その丁寧な語り口調が向けられた相手が見えない。独白であるとすれば、〈ですます〉の丁寧さは、「主体」と「主体を客観する主体」を隔てる膜のような存在に感じられる。つまり、ここにも境界が存在しているわけだ。水しばりの奥に感じられる張り詰めたような、それでいて触れることを求めるような境界の表面張力。作品の魅力はそこにある。

海風に乗って帰れよファンタジーまた明日相手になるからさ

掉尾を飾る一首。どうやら、空想と現実の境界は、作者には自在に行き来できる一線のようだ。ながや宏高が描きだす次なる境界を待ちつつ、私は乾いた冬の終わりを待つのである。

 

初出:「かばん」 2015年3月号 「新人特集号」
ながや宏高による連作「水性ファンタジー」(同号掲載)について