未刊の事典、砂の事典 ――歌壇時評2015年3月

本誌1月号に大野道夫が「結社の記念事業力――『塔事典』を例として」を寄せている。昨年六〇周年を迎えた塔短歌会発行の『塔事典』を分析することで、結社における「記念」とは何であるかを問う好文であり、あらためて「記」と「念」の意味を考えさせられた。

「全国に約六五〇あると考えられる結社だが」という冒頭の記述が目に留まった。この数字は大野の著作『短歌・俳句の社会学』(はる書房・二〇〇八)にまとめられた調査の結果「短歌結社数は六四六結社と推定された」(P.131)に拠るのだろう。調査は二〇〇四年の「短歌研究」「短歌」の短歌年鑑に収められた短歌関連組織の住所録を元としている。今後、追跡調査もなされるであろうが、十年を経て結社の数はどのようになったのだろう。参考程度に「短歌研究」の短歌年鑑所収の「全国短歌雑誌発行所住所録」を数えると、同人誌・県人会等を含めた数は、二〇〇四年版で821組織、二〇一四年版で692組織であった。

どのような組織を「結社」と見なすかは人にも依ろう。そこで、「結社」「同人誌」などの区分が記されている「短歌」の短歌年鑑を元に、ここ5年の掲載結社数を図にまとめた。なお、結社の支部組織、及び「超結社」に区分されているものは含めていない。また、区分上「不明」であるものも、例えば動向欄にて自誌を結社誌と呼んでいる団体など、結社として数えたものもある。

図1:掲載結社数の推移

掲載住所数(同人誌等も含む全体)は「短歌」より「短歌研究」が充実しており、およそ5割増しである。よって、実際には図よりも多くの結社が存在している。実数よりも、構成比率や傾向を中心にご覧いただきたい。

データ元:『短歌年鑑』(KADOKAWA)各年度の「全国結社・歌人団体 住所録・動向」。住所録に新たに加えられた結社については、創立年に遡って数に含めた。

図からは、ここ5年で結社が約15%減少したことが分かる。要因としては、まず創立40年〜59年に差し掛かった結社の減少が著しい。創立時の代表も高齢となり、次代に結社を繋げるかどうかの分水嶺となる頃なのだろう。代表を任せられる者に恵まれているかは当然として、結社を運営する費用面も重大な問題となりうる。運営費を多少なりと代表が融通している場合、そのことまで引き継ぐのは酷だ。一方、創立60年以上の結社は、一度は代表交代を経験しているであろうから、存続性が高い。全体減少のもうひとつの要因は、創立9年以下の結社の減少である。こちらは、10年継続できなかったというよりも、新しく誕生する結社がほぼないことに尽きる。

結果、結社は会員面で高齢・減少傾向にあるだけではなく、結社そのものを人に見立てたときにも、高齢・減少傾向にある。二重高齢化の先に想像できるのは、一部の長寿結社だけが残る、なんとも寂しい世界だ。

この状況において『塔事典』が齎すものを考えたい。

まず、なくなった結社それぞれにも〈未刊の事典〉があったはずである。『塔事典』の分厚さへの感動は、その数倍の分厚さの喪失を呼び起こす。

次に、『塔事典』が世の結社に問うたことの大きさである。本来、世代を超えた会員が顔をつき合わせて切磋琢磨しあう過程で引き継がれてきた、過去の出来事やその意味合いが、事典にまとまってしまっている(・・・・・・)のである。事典があって便利ですね、勉強が効率的で捗りますね、ではなく、端的に言えば、事典にあるようなことは当然のこととして、事典にないことを築きあげよという未来志向のメッセージを感じたいのである。歴史ある結社が残りやすい状況で、このベクトルの大回転は意義深い。

事典があるから楽なのではない、事典があるからこそ苦しいのだ。長い将来のいつかよりも今編纂するのが一番楽なはずだ、と歯を食い縛ったこと以上に、事典を手にする会員への強い期待と信頼がその分厚さに重なって見えたからこそ、結社に所属していない私にも、胸にこみ上げるものがたしかにあったのである。

熱くなってしまった。ともかく「あれ、『塔事典』に立項されてることですが、お読みでないんですか」「あれ、それって『塔事典』の記載のままですよね。あなた自身の考えを聞きたいのですが」――そのふたことをとびっきりの愛情を込めて言えるように、妖怪まくらがえし宜しく、私は夜な夜な『塔事典』を繰っている。

さて、結社の情況を鑑みると、特定の組織に所属せずに歌に関わる人はいっそう増えるばかりだろう。インターネットは大きな受け皿であり、なおかつ組織の所属を越えた結節点でもある。その意義は誰も看過できない。

では、インターネットにおける短歌活動は誰が〈記念〉するのか。『塔事典』に「エリゼ」や「勝手に合評」や「深泥池」があるように、インターネットと短歌の関わりの中にも「エリゼ」や「勝手に合評」や「深泥池」のようなものが確かにあった。ウェブはそれこそ巨大な事典みたいなものだから検索すれば、ほらすぐに――あれ?

砂のように無限に断片化するインターネットの情報に埋もれ、物事はすぐに干乾び、元の姿もわからない化石となる。後片付けをしないままの文化祭を、私たちは重ね続けていないか。そこに、歴史と未来はあるのか。

結社に入っていなくても、事典が欲しい。そして、事典がある苦しみを、たらふくに味わいたいのである。

 

初出:「短歌研究」 2015年3月号 歌壇時評