客席のない舞台 ――石川美南の空想力

わたしなら必ず書いた、芳一よおまへの耳にぴつたりの話  『離れ島』

石川美南から一首を引くのは難しい。例えば『裏島』から「異界より取り寄せたきは氷いちご氷いかづち氷よいづこ」を引くとする。あまりの暑さに天変を呼ぶほどかき氷を欲するさまが、リズミカルに詠まれた歌である。しかし、この一首は「大熊猫夜間歩行」と題する連作に収められた、ある夏の夜に動物園を抜けだすパンダ(大熊猫)が主体の歌だ、ということを付け加えなければならない。猛暑に遊び道具としてパンダに氷塊を与えることがあるが、それが下敷きになっているのだろう。いずれにせよ一首を越えた何かを添える必要がある。

石川美南が連作を通して直接語る豊かな〈物語〉が、一首を抜き出せと言われると右のような〈解説〉になってしまう。随分と損をしていると思う。石川美南が、ではなく、現代短歌が、だ。

掲出歌は、石川自身が『裏島』と双子の歌集だと言う『離れ島』から引いた(その呼び方すら物語的だ)。経を書き忘れた耳を、平家の怨霊に捥がれてしまう琵琶法師の芳一に対する一首である。〈解説〉をするならば、この歌を収めた連作「物語集」は、五十首すべての結句が「~話」で終わっている。「失ひし言葉を捜す旅路にてななたび落とす命の話」「陸と陸しづかに離れそののちは同じ文明を抱かざる話」というように、話の種類も多岐にわたる。つまり、従来の石川作品にて紡がれる〈物語〉が形而下に移り、一首一首を構成している。話のそれぞれが具体的にどのようなものかが語られない以上、読み手自身が物語を創造する必要がある。そこに客席はない。舞台は一緒につくるもの、という石川美南の意識は、想像性を特徴とする他の歌人との大きな違いだろう。読み手との対等性を信じるからこそ、手を引いて物語のなかに導けるのだ。

原油を祖先とする一族と出逢ったり、冷蔵庫のなかに灯台を見つけたり、海を分けて島々を取りあったり。想像力でどこへでも行ってしまう石川美南を、他の歌人と括るのは難しい。たとえば同世代の複数の歌人から意に沿った歌を引きつつ「この生き辛い時代を、彼らなりの価値観でなんとか生き抜いている」と結論付けるような、こちらが用意した〈モノガタリ〉には引っ掛かってこない。このこともまた、石川美南から一首を引くのが難しい一因だ。

しかし、物語性の強い作品群を通して、作者が像を結ばないわけではない。芳一の前に立つのは石川美南であり、書かれたのは、「ぴつたりの話」ではなく、短歌の連作だろう。それは決して、歌の一人称が「わたし」だからではない。耳を失うという悲劇がわかっているのであれば、自分の生み出す物語で書き換えてしまいたい。それができる、という信念が石川作品には通底している。かき氷がなければ、異界を開けばよい。たやすいことだ。つまりは逃げ出したパンダのなかにも石川美南がいるのだが、これは〈解説〉ではなく〈物語〉を通してのみ焦点化されることだ。

生き辛い時代と言うのであれば、その耳に物語をのせればよい。だから私たちは、〈モノガタリ〉に煤けた耳を拭っては、石川美南の前に差し出すのである。

 

初出:「歌壇」 2014年8月号
特集:「短歌の空想の力――フィクションとファンタジーの魅力」
「この人の空想力」石川美南