「力」という一字の行方 ――『菱川善夫歌集』を読む

怪・神・乱孔子はとかず而もなほ論語一巻の価値動くなし

菱川善夫の公演記録集『素手でつかむ火』を手にしたのは学生時代だった。時代と斬り結ぶことから逃げる歌を、菱川は容赦なく斬ったが、その宝刀として塚本邦雄の歌を抜くさまには、見得をきるような様式美があった。

歌人が批評家を、批評家が歌人を産む。鶏卵の関係ではなく、龍虎が互いを産み合うような関係に憧れた。

掲出歌は「新墾」昭和二十三年十一月号掲載の一首。「怪・神・乱」といった怪しげなものよりも理性に重きを置いた孔子への共感が伺える。このとき菱川は十九歳。その意思は凍らせた火のように凛々しい。

「怪・神・乱」は『論語』の述而篇の「子不語怪力乱神」が元になっている。白文をよく見ると、「力」の一字が多い。つまり、孔子は武勇性や暴力性も説かなかった。

初期の菱川の歌は、比較的定型を意識する傾向にある。また、初句七音を特徴とする塚本との邂逅もまだだろう。菱川は「怪力乱神」をそのまま初句に据えるのではなく、少しでも定型に近づけようと、四文字を吟味したうえで「力」を落としたわけである。これは良い、と。

塚本の短歌も菱川の評論も、理性や知性だけでは語れないものがあり、それこそがこの「力」だと思う。塚本の短歌では〈辞の断絶〉による異質なもの間の衝撃、句跨りによる言葉の破壊。菱川の評論では、自らが良しとしない歌への斬り付けや、「敗北の抒情―その追悼序説―」といった評論題に象徴される、美麗な言葉選びにこめられた熱量。いずれも理性だけではなく、有無を言わせない「力」にも説得力があった。掲出歌の推敲に、そんな菱川の世界の資質を汲みとっても、深読みではないだろう。ひとりの歌人の死から、およそ七年が経つのだから。

 

初出:「短歌研究」 2014年7月号
特集:菱川善夫の歌を読む