無所属を生きるということ

大学卒業前に魚村晋太郎さんとお酒をご一緒したことがある。憧れの人に会えた興奮と酔いとで、私は饒舌にも「何かの賞を獲るまで結社や同人誌には入りたくない」と話した。氏は優しく、だがきっぱりと「その考え方はとても格好悪いよ」と言われた。何も返せなかったその言葉を時折振り返る。無所属のままに。

短歌という大陸の果てに居る変わり者――短歌の集まりなどで発言を求められる時、かつてはそのような視線を感じた。最近では、多様な場を中立的に見ているのではという期待を感じることがある。インターネット上の場の広がりや新たな発表媒体の登場など、〈短歌という大陸〉がひとつではなかったという発見がその背後にあるのだろう。果てではなく交流点。期待には応えられていないが、そうありたいと願う。

無所属であっても、好きな歌集や歌書を繙き、好きな超結社の歌会や勉強会に参加すれば、誰でも短歌を続けていくことはできる。選を受けないため連作への志向性は強くなるが、同人誌で活動する者も同じだろう。しかし、〈ひとりが短歌を続けられること〉は必ずしも〈短歌の世界が続くこと〉を意味しない。

惜しみなく付箋を貼った好きな歌集や歌書はどこから生まれたか。歌会や勉強会で頷きながら書き留めた言葉はどこからその人にもたらされたか。結社や同人誌がその土壌に蓄えてきた歌や歌論の地下水脈と、しつらえの良い井戸。それを自らの歌のためだと勝手気ままに汲みあげるだけでは、尽きて当然ではないか。そう、その考え方はとても格好悪い。

短歌の世界は〈場〉を中心に語られやすいが、場の維持や創出というのは表層的なことだと感じる。従来の場が担ってきた〈機能〉を把握し、それを次の世代にどのような形で残すのかを考える段階ではないか。その必要性の前では、所属の有無もまた表層的だろう。

私にできることを見つけ出したい。「歌を詠んでいれば歌人である」という時代が終わろうとしている中で、ふたたび格好悪いと言われないためにも。

 

初出:角川「短歌」 2013年9月号
特集:歌壇の歴史と現在―結社、同人、ネット、そして「私」