渡辺松男の既刊七歌集を振り返ると、人生の短さを詠んだ歌が散見される。
棒切れかなにかのごとき一生も棒切れに長さありてわれ泣く 『歩く仏像』
こごみ見るありあけすみれ一生はたまはりものにしてもみじかし 『蝶』
本稿では「限りある生への意識」を鍵に、その独特な世界の見取り図を描いてみたい。
死からわれ逃げ切りたるをふりむけば桐の陰から妣が見ている 『歩く仏像』
歌によく登場する妣の生者のような存在感は、死という概念の否定であるが、皮肉なことに、死が血縁にも似た逃れられない存在であることの暗示にもなっている。
妣と同じくよく描かれる、巨木や高層ビル、その先にある高い空はどうだろう。
死ぬ木があるってまかふかしぎを天空に燭台に似た花咲かせおり 『けやき少年』
麦を刈りおえて見ており青空が青空の子を生みだす力 『自転車の籠の豚』
「高さ」という垂直方向のベクトルは、永遠性への希求によって作品世界に導かれる対象のようだ。一方、自己は「高さ」を獲得することはできず、分裂した同時並行的な存在として歌に登場しやすい。
一のわれ死ぬとき万のわれが死に大むかしからああうろこ雲 『泡宇宙の蛙』
光ってなんなの精子たちの死よ一億のわたしたちは特攻 『けやき少年』
自己がどれだけ並存しても生が合算できないものである以上、永遠性を得ることはできない。むしろ、分裂した数に等しい死を量産するだけである。そこで渡辺は、個々の存在を小動物ほどに小さくすることで、存在と等しく釣り合う死の重さを、間接的に軽くしようと試みる。
ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある 『泡宇宙の蛙』
風となり蟻走るとき数無数ひとつの蟻に従きて吾もゆく 『〈空き部屋〉』
また、大きな物を小さな物に封じることで「壺中の天地」のような無限連鎖を生む方法も多く試みられている。存在を極大・極小化させることで「限りある生への意識」を、人智には感知できない段階にシフトさせようとする意図が感じられる。
つくづくとメタフィジカルな寒卵閻浮提容れ卓上に澄む 『寒気氾濫』
笑え笑えおたまじゃくしの小さな歯 世界はたぶん歯より小さい 『歩く仏像』
死者の呼び寄せ、アニミズム、巨大な物へのこころ寄せ、存在の分裂・縮小と世界の無限連鎖――その土台にある「限りある生への意識」という文脈に置けば、渡辺が命を無限に生み出す存在となることを願うのもまた、決して奇想ではないのだろう。
夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産む 『泡宇宙の蛙』
ひとりごと漏らせば山野秋めくをひっそりとわれ卵あたたむ 『歩く仏像』
この先、「限りある生への意識」をめぐる世界はどう変化するのだろう。見取り図は常に、描き変えられるため存在している。
初出:「短歌往来」 2013年10月号 特集:渡辺松男