岡本かの子の構成意識

岡本かの子の第一歌集『かろきねたみ』が大正元(一九一二)年末に上梓されてから、はや一世紀が過ぎた。

第二次世界大戦が始まった昭和十四(一九三九)年に四十九歳の若さで他界したかの子には、歌以外にも仏教研究や小説においての膨大な著作が残されている。漫画家である夫一平も芸術家である息子太郎も、かの子についての文章を多く残しており、一つ家の下にかの子の恋人も同居するという奇妙な家族の在り方も広く知られている。

塚本邦雄は第三歌集『浴身』所収の「桜」百三十八首を、「もはや止める術もない詩心の翔り、言葉に魁けて奔りやまぬ命、天眞爛漫、なりふり構はぬかの子の熱情が、玲瓏と飛び、(ころが)り、かつ漂ふ。(註1)」と評しており、かの子の特徴を的確に見抜いている。かの子の作風は端的に言えば玉石混淆であり、個別の歌に立ち止まって読むよりも、キーワードである〈いのち〉を感じつつ、総体として読む方法が主流であるかもしれない。

しかしながら、混淆する玉と石とを連ねる糸の部分――歌集を編むための構成意識――については、多少の検証を挟む余地があるように思われる。本稿では、歌人としての資質や志向が現れやすい第一歌集の『かろきねたみ』を中心に考えてみたい。

『かろきねたみ』はかの子の直筆による歌を木版におこし、柾紙の日本紙に刷った瀟洒な歌集である。一頁を一連作七首組みとし、十連作七十首で構成されている。初出が判明している歌(註2)は、明治四十二(一九〇九)年から四十五年に『スバル』『青鞜』『創作』で発表された歌である。一方、初出未詳の歌の多くは未発表作品と思われ、一平は「この時代のかの女は、さらでだに表現欲のみあって、発表欲の少ない時代で、わずかに求められる雑誌へ歌稿を送るほか、詠めば詠み放しで、(まと)めることを知らなかった。(註3)」と述べている。

初出を辿ると歌集は編年体ではない構成であると分かるが、その点は読者には示されていない。しかし、九つの連作が例えば「女なればか」「袷の襟」のような主題を題としているのに対し、五番目の連作のみが「旧作のうちより」という異なる趣の題となっており、他の連作よりも時系列として古いものだと明確に示されている。

「旧作のうちより」の前に配された四つの連作から歌を引きたい。(以降、連作題には筆者による番号を付す)

前髪も帯の結びも低くしてゆふべの街をしのび来にけり   「一、女なればか」

捨てむなど邪おもふ時に君いそ/\と来ぬなど捨て得むや   「二、かろきねたみ」

いつしかに歔欷(すすり)てありぬ唄ひつゝ柳並木を別れ来にしが   「三、袷の襟」

いとしさと憎さとなかば相寄りし(ママ)かしき恋にうむ時もなし   「四、暗の手ざはり」

「しのび来にけり」「君いそ/\と来ぬ」「別れ来にしが」「おかしき恋」という恋愛を背景とした言葉からは、主体はまだ独身であるような想像が導かれる。しかし、五番目の連作にて過去に遡るかたちで、主体がどのような境遇にあるかが明かされる。「五、旧作のうちより」を全て引いてみる。(歌には筆者による番号を付す)

(1) 橋なかば傘めぐらせば川下に同じ橋あり人と馬行く

(2) ひとつふたつ二人のなかに杯を置くへだたりの程こそよけれ

(3) ゆるされてやや寂しきはしのび逢ふ深きあはれを失ひしこと

(4) 愛らしき男よけふもいそ/\と妻待つ門へよくぞかへれる

(5) 折々は君を離れてたそがれの静けさなども味ひて見む

(6) うなだれて佐久の平の草床にものおもふ身を君憎まざれ

(7) 山に来て二十日経ぬれどあたたかく我をば抱く一樹だになし   (以上二首一人旅して)

(3)(4)より主体が夫ある身だということが分かる。しかし、(5)にて夫との心の距離を感じさせる世界へ転じ、(6)(7)においては、信州の佐久平(さくだいら)に長期の一人旅をするという物理的な距離が描かれている。(7)の「あたたかく我をば抱く一樹だになし」という言葉には、夫以外の存在を希求する主体の在り方が強く表れている。「夫ある妻の恋」であることが明かされるこの連作に、作品の一つのピークが張られている。結果、六番目以降の連作においては、歌の中の「君」が、夫なのか、夫ではない恋人のような存在なのかの読みを揺さぶられながら、読者は読み進めることになる。そして、歌集は次の二首で閉じられる。

人妻をうばはむほどの強さをば持てる男のあらば()られむ   「十、みづのこころ」

偉なる力のごとく避けがたき美しさもて君せまり来ぬ

『かろきねたみ』の白眉として引かれることが多い二首であるが、単独の歌としての良さが、作品全体の展開の中で一層引き立つように配置されていると言える。

かの子の年譜を辿ることで、歌の背景には一平の放蕩や文通を続けてきた早大生堀切茂雄の存在があったことが分かる。そこから、実生活がそのまま下敷きとなっている歌集とも解釈できるが、それは後世の読者(・・・・・)だからこそできる読みであり、危うさを含む読みでもあろう。

ここで、歌集において大きな転換をもたらす五番目の連作を、もう少し詳しく見てみたい。「五、旧作のうちより」のうち五首については、初出が判明している。

(3) ゆるされてやや寂しきは…『スバル』明治43-12

(4) 愛らしき男よけふも…  『創作』 明治44-4

(5) 折々は君を離れて…   『創作』 明治44-4

(6) うなだれて佐久の平の… 『スバル』明治42-10

(7) 山に来て二十日経ぬれど…『スバル』明治42-10

かの子が一平と入籍したのは明治四十三年八月である。よって、(3)(4)(5)は結婚後、(6)(7)は結婚前の歌となる。つまり、歌集を編むにあたり、(6)(7)の歌は結婚前ではなく、結婚後の歌として読まれるように、わざわざ配置したと解釈できる。歌集を編むにあたって、かの子の構成意識が強く働いていることが読み取れる。

なお、(6)(7)の初出は次のような表記であったが、歌意の変更はない。(傍線部が歌集収録歌と異なる箇所)

うなだれて佐久の平の夕風にものおもふ身を君憎まざれ   『スバル』明治42-10

山にて二十日ぬれどあたたかく我をば抱く一樹(ひとき)だになし

年譜によると、二十歳を迎えることとなる明治四十二年の春、かの子は伏屋武竜と千葉県飯岡町に駆け落ちをするも、一ヶ月後に東京へ引き戻されている。その夏には、父と兄の大貫晶川(しょうせん)と共に、信州に旅行に出かけている。滞在先で知り合った美術学生を介して、秋には一平と会うことになるのであるが、時系列から考えると、信州への旅行を詠んだ(6)(7)の初出においては、かの子の意識には伏屋の存在が強く残っていたと考えるのが順当であろう(なお、堀切茂雄と逢うようになるのは明治四十五年(大正元年)である)。

さて、『スバル』明治四十二年十月号には、旧姓である大貫かの子名義の歌が二十八首掲載されている。十九首目の「肩あげて男の猛き歎きする浅間の山をとぶらひにきぬ」の下には「(以下旅にて)」という註が付されており、(6)(7)の初出は信州への旅の歌として二十五、二十六首目に置かれている。

注目したいのは、年譜に従うと信州への旅は父と兄との家族旅行であり、『スバル』では単に「旅」と書かれているが、『かろきねたみ』に収められた(6)(7)には「(以上二首一人旅して)」と、「一人旅」であるとの註が付されている点である。

前述の通り、『かろきねたみ』は一頁が一連作七首で組まれている。実物を写真で確認すると(註4)、どの頁にも手書きによる歌が余白がないほどに窮屈に並べられており、「五、旧作のうちより」も例外ではない。「(以上二首一人旅して)」という註は頁の左下(つまりは(7)の左下)に小さな文字で、やや強引に付されていることが分かる。

(6)(7)を読めば註はなくとも「旅」であることは読者にも想像できると思われるが、それでも無理に註を付したのは、それが実際とは異なれど、「一人」であるということを、どうしても読者に印象づけたかったためだと考えられる。ここにも、かの子の構成意識が滲んでいる。

『かろきねたみ』の歌を個別に眺める限りにおいては、明星の影響が強く、かの子の特色である〈いのち〉の熱量の発揮には至っていない。また、「~というさみしさ」のような型にはまった表現や、「いそ/\」「はら/\」などの畳語の多用は、玉ではなく石のざらつきを感じさせる。それでも、歌集に対する構成意識はかなり強く表れており、単なる実生活の反映ではなく、決して、心の赴くままに歌を収めた歌集ではないように感じる。そして不思議な事に、一見かの子らしからぬこの構成意識こそが、私には〈かの子らしい〉ように思われるのである。

 

(註1) 『岡本かの子全集』第八巻(冬樹社・一九七六)付録「岡本かの子研究X」

(註2) 初出情報は『岡本かの子全集』第八巻・補巻(同・一九七七)、外村彰「岡本かの子全集未収録資料紹介」(「大阪産業大学論集 人文科学編」一一六巻・二〇〇五)、「同(二)」(同 一二一巻・二〇〇六)参照。

(註3) 岡本一平 新装版『かの子の記』(チクマ秀版社・一九九六)

(註4) 早稲田大学の「古典籍総合データベース」にて公開されている。

 

初出:角川「短歌」 2013年4月号
若手歌人による近代短歌研究 岡本かの子(初出時タイトルなし)