「小島なお」ひとりについて

噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし

春風のなかの鳩らが呟けりサリンジャーは死んでしまった

二冊の歌集、『乱反射』(2007年)・『サリンジャーは死んでしまった』(2011年)から、歌集の題に採られた歌を引いた。

一首目は、第50回角川短歌賞受賞作「乱反射」に収められた歌であり、さまざまな場所で引用された。上の句における離散する光の輝きは、主体をつつむ青春時代のまぶしさに直結しており、下の句の自己規定へとつながる。「性愛をまだ知らない」という言葉には、「いつかは性愛を知るわたし」への予感が含まれており、純潔性の単純な表白ではない点が、歌の印象を深めている。二首目については、歌集のあとがきに「青春小説の歴史に名を残したサリンジャーの死と、学生という青春時代を過ぎたわたしの人生の区切りという意味を込めて、このタイトルにしました」とあり、鳩が呟くという空想の中で、暗示のようにサリンジャーの死を自らに言い聞かせている主体が確認できる。

「性愛をまだ知らないわたし」と「サリンジャーが死んでしまったわたし」。小島なおは、一方通行である人生の時間軸おいて、区切りとなる線を意識する歌人だと言える。

本稿では、高校時代から大学卒業・就職へと、多感な時期に出された二冊の歌集を通して、小島なおの変化を追ってみたい。

十七歳から二十歳までの歌を収めた『乱反射』では、切り取った場面を丁寧に描写する歌が目を引く。

牛乳のあふれるような春の日に天に吸われる桜のおしべ

エタノールの化学式書く先生の白衣に届く青葉のかげり

短歌ではありふれた春と桜という歌材が、「牛乳のあふれるような」という形容によって鮮やかに描かれた一首目。何気ない授業の一場面の中に「化学式と青葉」、「白衣の明るさと影」の対比が織り込まれた二首目。共に奇を衒った表現を用いることなく、捉えた場面の美しさをじっくりと引き出しているに特徴がある。

たくさんの眼がみつめいる空間を静かにうごく柔道着の群れ

もう二度とこんなに多くのダンボールを切ることはない最後の文化祭

この二冊の共通点は雨ですと西日の強い教室で言う

観る者は「眼」に、観られる者は「柔道着」に還元され、視覚のみで構築された校内風景。ダンボールに刃を入れる際の触感で語られる学校行事の一回性。そして、きっぱりとした「雨です」という声の響きに代表される授業風景。

春の桜、化学の授業、最後の文化祭。いずれの歌においても、短い時間であるはずの出来事が、端的な把握と表現によって、まるで永遠に続く場面であるかのごとく感じられる。もはや読者にとって二度と取り戻せないものが、永遠そのものとして差し出されている。

しかし、穿った見方をするならば、これらの優れた歌は、年長であろう読み手として「十七歳から二十歳の学生に詠んで欲しかった歌」に留まっているように感じられる。

『乱反射』を通して浮かび上がる、擦れたところもなく、背伸びをするでもない、今時珍しいとも言える学生は、確かに多くはないのかもしれない。それでも、「小島なお」ひとりよりも、遥かに多い。

そこで、小島なお個人の感情を伝えようとする歌、という視点で歌集を読んでみる。すると集中には、説明しがたい気持ちを詠んだ歌が多くあり、この点に作者独自のこだわりがあるように感じられる。いくつか引いてみたい。

なんとなくかなしくなりて夕暮れの世界の隅に傘を忘れる

なんでもない悩みに悩むわれつつみ映画のエンドロール流れる

樹の影もわたしの影もながくなり小さなことで泣けてくる秋

晴れの日はなぜか静かにかなしくて変わらずにある四月のポスト

これらの歌では、説明しがたい気持ちが「なんとなく」「なんでもない」「小さな」という言葉で、読み手にそのまま差し出されている。このような気持ちへのこだわりもまた、いかにも「十七歳から二十歳の学生」らしい。しかし、他人にとっては何ともないことや、一見小さなことだと思えることこそが、個人を形成する大きな要素であるだろう。その要素を、短歌という詩形の握力でつかみ出すことが、大切ではなかったかと思われる。

歌を通して、学生・若者という集合から如何に己を削り出してゆくのか。『サリンジャーは死んでしまった』はその期待の中で刊行された。

同歌集には、小島なおが二十歳から二十四歳までの歌が収められている。前歌集と比べると、まずもって就職や認知症となった祖父についての歌など、主題の幅が広がっていることが分かる。とりわけ、家族の歌には特有のあたたかさが感じられる。

ムササビのような寝姿恋人がいると思えずわが妹よ

すぐ人に頼るいもうと六月の開かれた窓のように在りたり

カキフライ食べつつ母はおもむろに五本指ソックスの良さを説くなり

草原を全力でかけてゆく人のいる四月あれは母かもしれず

妹と母についての歌を二首ずつ引いた。人に見せられないような奔放な寝相の持ち主であり、あっけらかんと人に頼る妹は、ムササビや窓に譬えられている。一方、母の何にも縛られない振る舞いは、ユーモラスに描かれている。

これら対象の人柄をうまく伝える歌とともに、次に引くような彼らと自己とを結びつける歌も存在している。それらが、翻っての小島なおの自己描写となっている。

たくましい男子(だんし)のような妹に将来助けてもらう計画

少しずつ母に似てきているようだ犬ばかり目につくようになる

「すぐ人に頼るいもうと」に対して、一方では頼もしく思っているちゃっかりとした自分。思いもつかない行動をとる母に、気が付けば似てきている自分。小島なおの個性と、家族への眼差しが十全に表れている歌と言える。

歩きつつ祖母の呼吸を聞いておりひるがおの咲く浜までの道

家族四人気球に乗りし夏の日をときどき誰かが話し始める

さらに二首引いた。共に優れた家族詠であり、『乱反射』に見られた、特定の場面を切り取り、時間を超えた空気感を歌に与える力が、『サリンジャー…』においても発揮されていることが見てとれる。

一方で、『乱反射』では、「なんとなく」というような言葉をともなって表現されがちであった、自身の微細な気持ちについてはどうだろうか。

なつのからだあきのからだへ移りつつ雨やみしのちのアスファルト踏む

きみとの恋終わりプールに泳ぎおり十メートル地点で悲しみがくる

植物園ときおりきみを見失いそのたび強く匂い立つ木々

季節とともに景色や身に付けるものは変わるが、自身が変わることはない。しかし、「なつのからだ」と「あきのからだ」と提示されると、確かな違いの存在に気付かされる。読み手の意識を身体へ向けたうえで、提示する下の句は、足の裏にくきやかな感触を残す。二首目では、十メートル地点という具体が、失恋の悲しみの存在感を高め、個人的感情を損ねることなく読み手に届けている。三首目では、恋人の姿を見失うときの不安と、それに連動して冴えてくる感覚とが、木々の匂いの強さを描くことによって、感情を直接的に示す言葉を用いずに表現されている。

このように、『サリンジャー…』では、表現しがたい感情を、具体によって伝える歌い方が導入されている。さらに、次の歌のように、矛盾する気持ちや理由が説明できない事柄を、そのまま詠んだ歌は印象深い。

なにからも逃げ出したいと嘆きつつあしたの服はもう決めてある

いつからか雲を数える癖がつき鰯雲ならぜんぶでひとつ

眉毛ならすこし伸びてる方が良い春に出会った人ならばなお

息苦しい世界にあっても、また明日、家から外に出ることを前提としている自分。服を選ぶという行為に、少なからぬ芯の強さが感じ取れる。二首目、雲を数えるという癖は、こころの余裕の表れだろうか。いわし雲をまとめて一と数える大雑把さが、感情の豊かさを示している。三首目では、なぜ眉毛が伸びている人がいいのかも、春に出会えばなぜ一層そうであるべきなのかも、読み手には分からない。しかし、論理的な説を明することなく、きっぱりと言い切る様に、読み手としては深く頷いてしまう。

「性愛をまだ知らないわたし」から「サリンジャーが死んでしまったわたし」へと、二冊の歌集を通して小島なおの変化を追ってみた。そこには、若者の代表であり、集合的な存在であった「わたし」から「小島なお」ひとりが削り出されていく過程が確認できる。

さて、その先には、どのような「小島なお」が描かれるのだろうか。若くして歌の世界に足を踏み入れた作者だからこそ、そしてまた、時間の流れに敏感な作者だからこそ紡ぎ出せる歌に期待したい。

歳月は誰のものにもあらざるを十和田湖の深き水底覗く

「弦」十九号「虹鱒」

 

初出:「歌壇」 2012年8月号