格子の中から

月に三十円もあれば、田舎(ゐなか)にては
楽に暮らせると――
 ひよつと思へる。       石川啄木『悲しき玩具』

啄木が二十四、二十五歳ぐらいの頃の歌になるだろうか。実に一世紀ほど前の近代短歌であるが、今いる場所を離れた生活に思いを馳せることは、誰にでもあることであり、共感性のある歌である。

『一握の砂』が刷り上がった明治四十三年十二月、啄木の東京朝日新聞社での俸給は二十八円にあがっている。半期ごとの賞与も受けていたので、「月に三十円もあ」ったわけではあるが、借金の返済や薬代によって、啄木の生活は苦しくなる一方であった。「田舎にて」という想像には、単に住む場所を変えたいという願望だけではなく、借金も病もない別の人生への希求も含まれているのだろう。

現在価値への換算は難しいが、一説によると啄木の借金総額は、現代における一千万円を超えていたそうだ。

1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン     永井祐

「短歌ヴァーサス」第九号(二〇〇六年)掲載の連作「1万円」から引いたが、この歌自体は二〇〇四年の冬に開かれた朗読会で、作者によって読み上げられている。永井祐は当時二十三歳であり、大学を卒業した年の歌である。

短歌のリズムに則った上の句に対し、下の句の「くばるその僕の/ぼろぼろのカーディガン」には、饒舌な印象を受ける。繰り返される「ぼ」音と、定型に収まらない音数による饒舌さだが、自身の描写の過剰さにおいてもそうだ。

同じ連作に「大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円」という歌があるので、当人にカーディガンを買い替えるお金がないわけではない。服装に頓着していないだけである。ただ、欠けているのは、着る服の色やスタイルへの意識ではなく、そのさらに一歩手前の、最低限の格好への意識ではないだろうか。

「1千万円」という算用数字を交えた表記にも注目しておきたい。一千万円は札束だが、1千万円には実体が感じられない。まるで、ゴルフ大会の優勝者に渡される、賞金額が大きく書かれた段ボールのお札だ。

一世紀を経て、生活におけるお金の意味が、ずいぶんと変化している。啄木のために、学術書を売り払う金田一京助には泣かされるが、永井祐の歌を読んで感じられるのは、清貧さや情の厚さではない。それでも、一首を通して残る印象である自己を決定づける行為や要素への饒舌さは、静かな叫びのように聞こえる。そこに私は抒情性を感じる。

金額が入った歌二首を比べてみた。啄木の歌は共感性に向かい、永井祐の歌は自己規定に向かう。なるほど、そこに時代の経過による価値観の変化や、家庭を持つ者と社会に出たばかりの者との人生における段階の違いを読み取ることはできるだろう。

詠み手も読み手も、時代と世代が織りなす格子の中から出ることはできない。それゆえ、歌を語ることは、”格子を語ること”にすり替わりやすい。「この時代を反映した――」「この世代に特徴的な――」という文脈において、もし個々の歌人性が捨象されてしまうのならば、随分と淋しい見方だと思う。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる     永井祐
考へれば、
ほんとに()しと思ふこと有るやうで無し。
煙管(きせる)をみがく。       石川啄木

デニーズもなく、携帯電話の電波も届かないような田舎で暮らすとしたら、永井祐はどのような歌を詠むだろうか。そしてまた、一千万円があったら啄木はどのように使っただろうか。このような空想を私は愉しむ。

それをナンセンスと呼ぶ向きもあるのかもしれない。ただ、時代も世代も歌を詠まない。人が生きて、人が歌を詠み、人が叙情する。私はそう信じている。

 

初出:歌壇 2011年4月号 「現代短歌の抒情事情」