第五十五回目の現代歌人協会賞に『鈴を産むひばり』が選ばれたことを、大変うれしく思います。選考委員の方々、ならびに、歌集の出版にご協力くださった方々に厚く御礼申し上げます。
短歌に関わるようになって十年以上が経ちますが、学生短歌会に所属するまでは、アンソロジーを読むことが中心でした。後に、京大短歌会の扉を叩いてからは、諸先輩方から歌集を借りつつ学んできました。京都の三月書房にも足繁く通ったものです。それでも、私自身に直接的な影響を与えたのは、特定の歌人の短歌ではなく、共に短歌を学んだ人々の考え方や姿勢にあったように思います。
社会人となった現在は、インターネットに関する仕事に就きつつ、結社や特定のグループに所属することなく作歌を続けています。
歌集に解説やしおりがないことについて各所でご言及いただきましたが、所属組織を持たない私のような者が歌集を出版すれば、こうなるのが当然ではないでしょうか。同様の歌集が増えていくことが、現代短歌の流れかと思われます。
あらためて考えてみると、私たちが常に生きる「現代」とはどのような時代でしょうか。
詩人マリネッティがフィガロ紙に「未来派宣言(Manifeste du futurisme)」を寄せたのが、およそ一世紀前となります。未来派が行き着いた先は一旦措くとしても、「咆哮する自動車は、サモトラケのニケよりも美しい」という一節には、忘れがたいものがあります。
ただし、現代においては、「咆哮する自動車」という箇所は、「遍在するインターネット空間」とするほうが、しっくりくるかもしれません。動力や速度の時代から、無限に広がる空間の任意の二点をゼロ距離で繋ぐ時代へと変遷を遂げたわけです。そこにはもはや、運動も距離も存在しえません。
最終的にファシズムへと回収されてしまった未来派を思うとき、この時代の行き着く先を思います。
さみしい、苦しいと心のままを投じたメッセージは即座に不特定多数に送られ、当たり障りのない励ましのメッセージがピンポン玉のように返ってきます。
また、個人の多様な趣味嗜好の追求は、せいぜい「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という統計論的な矮小化・類型化のすり替えにすぎないように思います。
そして、デマを流布する者を徹底的に吊し上げることの動機が、インターネット空間を理想の場とするための粛清である限り、私たちはまた何度でも騙されることでしょう。
もはや「マニフェスト」なる言葉が、口約束程度の意味しか持ちえない時代において、くぐもるような声で小さく宣言できることがあるとするならば、この現代に短歌がのこされている意味が必ずある、ということだけです。
ゼロ距離の時代になっても、重なりえないものを私たちは持ち、また、ゼロ距離の時代になったからこそ、より遠くなったものがあるはずです。 それらを意識しつつ、自分だけの表現を見つけていきたく思っています。
現代歌人協会会報 127号:2011年6月 「第55回現代歌人協会賞受賞者に聞く」