心地のよい恥ずかしさ ――映画『乱反射』を観て

『現代短歌の全景』(一九九五年/河出書房新社)に納められた座談会「明日の歌を考える」で、司会の小池光が短歌について次のように述べている。

誰もつくっている人はいないし、とても友達に言えないし、恥にまみれた古臭い傷だらけのものをあえてやるんだみたいな、(中略)いま短歌をつくるというのは、全然そういうものじゃなくなってきたような気がするんだけれども、どうですか。

小池光の「どうですか」は、座談会に参加していた加藤治郎、三枝浩樹、谷岡亜紀、藤原龍一郎に向けられたものだが、映画『乱反射』の主人公である高校生の志摩なら、こう答えただろう。いいえ、短歌をつくることは恥ずかしいです、と。

映画の筋に触れずに書くので抽象的な書き方になってしまうが、『乱反射』は短歌に関する「恥ずかしさ」を思い出せてくれる映画である。

短歌を詠むと、その事実性に拠らず、思わず自身の深いところから物事を汲み取ってしまう、あの恥ずかしさ。

知人から「短歌をやってるんだ」と言われて、「はい」と答えるときの心の緊張と、いつかこの人にも理解して欲しいと思う、あの気持ち。

普段、歌人とばかり交わっていると、意識する事のない感情、あるいは、互いに心得があるがゆえに踏み込むことのない領域。それらが、思春期の夏休みを舞台としたストーリーの中で、自然と思い出される。

短歌をはじめたころに悩まされた「恥ずかしさ」は、どこかで作歌の原動力に繋がっていて、振り返ってみると、時に心地よかったように思う。

歌集をどう映画にしたかという視点で観るのも面白いが、映画の中に自分を探しつつ観るのもよいかもしれない。試写室の暗闇のなかで、そんなことをメモしていた。

 

初出:「短歌」 2011年8月号 特集 映画『乱反射』を観て

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