現代における写生について考えるにあたり、原点に立ち返ってみたい。正岡子規は文芸における「写実主義」と、絵画における「写生」から、短詩型に「写生」という言葉を持ち込んだ。子規は「写実」と「写生」を同じものとして扱っていたため、本稿でもそのように扱うが、現代の写実画の世界から、現代の写生歌を照らすことに一定の意味はあるだろう。
磯江毅という写実画家がいた。若くしてスペインに渡り、画家としておよそ三十年をそこで過ごした。二〇〇七年に五十三歳の若さで亡くなったが、『新聞紙の上の裸婦』『深い眠り』『サンチェス・コタンの静物(盆の上のあざみとラディッシュ)』など、精緻な描写は国内外を問わず、高い評価を集めた。彼の文章を繙くと、短歌の世界同様、写実画というものが時代の変化の中で「古いもの」として扱われていることがわかる。
近代から現代、西洋美術は目まぐるしい変貌を続け、抽象や観念的表現が主流になり、写実表現は古い、そして保守的であるというレッテルがはられるようになりました。
磯江毅「写実考」(広島市立大学芸術学部教授就任後の文章)より。以下の引用も同様。
現在の写実画の世界が、子規の時代と決定的に異なるのは、何よりも写真の存在である。手間をかけることなく世界をありのままに再現することができる写真という存在の前で、写実画は常に存在意義を問われることになる。
それは例えば、日本人にとって日本語が母国語であるように、私にとって写実的方法でしか自己を表現できなかったのです。
礒江の写実画は、自己表現の手段として疑いのない自明のものとして始まった。絵画や詩歌といった区分を超えて、芸術活動が自己表現を第一とすることに珍しさはない。私性をめぐる議論はやまず、また、青春の文学と呼ばれることの多い短歌においては、この傾向は一層強いだろう。
弁解のごときを受話器に告げながら目は追ひぬ迅くながれゆく雲柚木圭也『心音』
なにものでもない何かにぼくはなりたくてニセアカシアの樹をまた見上ぐ
柚木圭也の歌を引いた。弁解にすぎないことを述べていると自覚しつつ、その自覚から思いを逸らすかのごとく、過ぎゆく雲を見つめる一首目。自身の唯一性を幾度も希求しながら見上げる木は、アカシアの偽物としてしか定義されない「ニセアカシア」であるという二首目。いずれも、優れた歌であると思うが、それ以上によくできた歌だとも感じてしまう。雲もニセアカシアも、最初からそこにあった物というよりは、心のありかたと合うものを世界から選び採ってきたように感じる。その選び採るという行為こそが作歌活動ではあるが、同時に世界をよくできた造り物のように感じさせてしまう。
再び、磯江の写実観に戻ろう。先程の文に続く箇所である。
しかし、やがて写実的方法ということ、自己を表現するということの意味にも疑問を持つようになり、傲慢ささえ覚えるようになりました。写実は、むしろ自己を抑え、対象物そのものの再現に徹することのなかに、表現意識を封じ込んでゆくこと(=哲学)ではないかと考えるようになりました。
対象物の再現を主とし、自己の表現意識を従とするこの段階を便宜上の二段階目と呼ぶならば、自己表現を主とする前段階目と状況が逆転していることになる。この第二段階目に相当する歌を、同じく柚木の歌集から引いてみたい。
自転車で走り抜けるとき春泥はあるやさしさをもて捉ふるしばし
〈生コン〉といふ字が見えてそれよりは空緊まりゆく冬のまぢかに
春泥を通るときに速度が落ちる自転車。そのゆったりとした抵抗力に感じる「やさしさ」は春そのもののもつ性質であると同時に、主体の心のありかたそのものであろう。また、「生コンクリート」という物質名を「生コン」と約めるときに生じる、生活圏における確かな存在感は、空間的にも心情的にも緊張感をもたらす。春泥や生コンが、主体の心情を引き出している点が特徴である。また、一段階目の例に採った歌とは構造的に異なり、上の句に場面が置かれ、下の句に心情につながる語が置かれていることは偶然ではないだろう。
歌としてある種の完成とも思える二段階目だが、磯江の写実観はさらに次の段階が存在する。
そして、最近ではまたそのことにも勘違いがあることに気づきました。それは、表現するのは自分ではなく、対象物自体であるということです。その物が表現している姿から、どれだけ重要なエレメントを読み取り、抽出できるかということなのです。角膜に受動的に映る映像を根気よく写す行為ではなく、空間と物の存在のなかから摂理を見出す仕事だと思うようになったのです。物は見ようとしたときにはじめて見えてくるのです。
三段階目にしてついに従たる自己表現は消滅し、純粋に対象物を描くことによる摂理の追求に到る。この段階に近いと思われる柚木の歌をあげる。
ポテトチップスひと皿夜の卓上に置かるるただの物体として
啜らむと口を寄せゆくコーヒーに鼻のやうなるものは映りぬ
ポテトチップスを食べ物として見ない。確かに自身の鼻であるものを、鼻のようなものとしか見ていない。これらの歌では、対象から自身の常識や観念が引き剥がされている。さらに言えば、自己表現の消滅でもって、限りなく機械に近づきつつも、描写するのは常識や観念を引き剥がした対象の真の姿であり、摂理である。この方法の追究は、写真やコンピュータグラフィクスと比較されてしまう現代の写実画の世界においては、非常に説得力がある。一方、短歌においては、自己表現に結びつかない歌には、やや物足りない感が伴うのは何故だろうか。読み手が短歌に自己表現を求めてしまいがちである点は措くとしても、絵画においてポテトチップスをただの物体として描くことは極めて難しいが、文字においては、「ただの物体である」と、たやすく書けてしまうことに要因があると思われる。
写実を極めることは、写実ではなくなってしまうことと考えています。物をよく見るということは、物の成り立ちを見極め、やがてそれを解体、解剖することだと思うようになった(中略) 写実には、客観性の尊重というルールがあります。しかし、作家はそのルールを守りつつ、自身の主観的表現欲とどのように対応し、折り合いをつけてゆくのでしょうか。作品の精神性の高さはそんなルールの中に見出す精神の自由さによるものだと思っております。
礒江毅 現代写実絵画研究所同人及び関係者への手紙より
礒江の写実観は、対象表現と自己表現とのせめぎあいから、自己表現の消滅を経て、最終的には対象表現を通しての自由な自己表現へと到った。「客観性の尊重」というルールの中に自由が存在するという考え方に、どこか馴染みを感じるのは、定型という制限の中においてこそ、ときに豊かな表現が得られることを私達が経験しているからだろうか。
〈巣鴨59〉てふ名を与へられしパーキングメーター点滅しをり、真ひるま
フルーツゼリーすくひつつ見ゆ大山勤ダンススクールに動きゐる影
駐車時間を過ぎているためか、ひとつのパーキングメーターが点滅している。パーキングメーターには名前がつけられて擬人化されているが、歌の中に人間の存在は感じられない。真昼の明るさのなかに佇む主体の、静かな心持ちがじんわりと伝わってくる。二首目も同様である。ゼリーと踊る影を通して描かれているのは、今ゼリーを食べている生き方と、今踊っている生き方が、互いに干渉することなく併存している様であろう。両者ともに自身が生きたいように生きているようでいて、かすかな虚しさが湧き出てくる。
二つの歌は、「巣鴨59」「大山勤ダンススクール」という極めてトリビアルな事物を含みつつ、大きな心情表現へと繋がっているように思われる。それはちょうど、焦点に集められた光が、焦点距離を越えて再び拡散していくイメージに近い。定型という制限の中で、世界の具象に表現を絞り込む力が強ければ強いほど、それは具象を起点とした大きな表現の拡がりを生む原動力となる。写生の歌の究極的な魅力は、そのようなところにあると考えている。
写生の歌を詠むには動機が求められ、写生の歌を詠み続けるには哲学を求められるのが、現在の状況であろうか。
磯江の言説は、磯江の絵画があって初めて成立する。写生論に限った話ではないが、行き着く先は、歌人の生き様や哲学ではなく、常に歌そのものであってほしいと願う。
本稿においては、あくまでも磯江の写実観に、柚木の歌を当てはめたに過ぎない。柚木の歌には写生とは異なる秀歌も存在し、また、柚木独自の写生観があって当然である。ただ、柚木の「巣鴨59」「大山勤ダンススクール」の歌が、私には他の歌以上に優れたものと感じられ、その理由に繋がる補助線を長く探していた。そしてある日、磯江の文章に出会った。
行き着く先だけではなく、写生論の始まりもまた、常に歌そのものであってほしいと願う。
* 磯江毅の文章は『増補 磯江毅 写実考 Enlargement Gustavo ISOE’s Works 1974-2007』(二〇一一年:美術出版社)に拠る。
初出:「短歌現代」 2011年11月号 特集 新・写生論