映像が立体的に見える3D映画が流行っていると聞いて、最近その一つである「アバター」という映画を観た。立体映像の方式にはいくつかあるそうだが、ゴーグルを装着する点は共通している。私が足を運んだ映画館では「シャッター方式」と呼ばれる方式を採用していた。スクリーン上には、右眼用の映像と左眼用の映像が高速で切り替えて流される。それに合わせて、ゴーグル側も高速で左眼側、右眼側と交互に光を通さなくなる。その結果、現実に近いかたちで映像が立体的に見えるわけだ。常にゴーグルの左右どちらかの「シャッター」が閉じた状態であるから、なるほどやや映像は暗く見える
映画の内容には詳しくは触れないが、強欲な地球人が未開の星の資源を求めて、ネコ科の生物が”人類”として進化したような顔つきをした自然を愛する原住民族と争うという、分かりやすい構図のSF映画であった。立体映像による映画世界への没入感に、原住民族に似せて作った依代に地球人である主人公が乗り移るというストーリーが加わり、観客の中には”現実世界”に絶望を覚え、自殺を考える者まであらわれたそうだ。技術の進歩とはいえ、随分と穏やかではない。
百年ほど前、色はもちろんのこと、まだ映画には音声すらついておらず「活動写真」と呼ばれていた。啄木の「ROMAZI NIKKI」にもしばしば登場し、映画の内容を語り解説する活動弁士が下手だの、興がなかっただのさんざんな書かれ方をされているが、啄木自身は活動写真が好きだったようだ。金田一京助などと一緒に観に行くこともあれば、ひとりで行くこともあった。啄木の心持ちが表れている箇所を引きたい。
人のいないところへ行きたいという希望が、このごろ、ときどき 予の心をそそのかす。人のいないところ、少なくとも、人の声の聞こえず、いな、予に少しでも関係のあるようなことの聞こえず、たれもきて 予を見る気づかいのないところに、一週間なり 十日なり、いな、一日でも 半日でもいい、たったひとり ころがっていてみたい。
どんな顔を していようと、どんななりを していようと、人に見られる気づかいのないところに、自分のからだを 自分の思うままに 休めてみたい。 予は この考えを忘れんがために、ときどき 人のたくさんいるところ――活動写真へ行く。(表記は桑原武夫の編訳に拠る)
厭世観を漂わせつつも、人目が気になっている点がなんとも啄木らしいが、ともかく映画は現実から逃避するための手段だったようだ。「ことにも もっともバカげた 子供らしい写真を 見ているときだけは」啄木も全てを忘れることができたようだ。
百年が経ち、映画には音がつき色がつき、立体映像さえ獲得した。啄木が求めたその場限りの現実逃避としての娯楽は、今や観客に深い没入感をもたらし、自殺を思わせるほどに進化した。息抜きどころか、魂を抜かれるわけである。
これは何も映画だけに限らないのではないか。インターネットを利用した終りのないゲームに夢中になり、寝る間も食べる間も惜しんで遊ぶ者が増えていることも、ときおりニュースで聞く。「遊ぶ」という表現を使ったが、実際にはゲームのなかでも何らかの役割が与えられ、働き、物を作り、売り買いをするなど「暮らす」という方が正しいのかも知れない。自らの人生から抜け出すための仕掛けは充実するばかりである。
一方で、短歌は千年以上、変わらないままだ。五句三十一音という簡素なかたちで表現されるこの詩に、なまなましい肉声や風景の臨場感を与えるには、詠み手にも読み手にも訓練が必要である。ここには、声に読み上げて内容を解説してくれる活動弁士も、立体視を可能とするゴーグルも存在しないのだから。それをもって「古い」と呼ばれる節があっても仕方のないことなのかもしれない。
詠み人知らずであったとしても、他者の視点で詠んだ歌であったとしても、言葉の伽藍のような歌であったとしても、辞書の出版社の面目が保たれるような文語であったとしても、漢字の書き方を忘れたような口語であったとしても、結社誌の細き一行であったとしても、インターネット上の横書きのつぶやきであったとしても、ひとつの歌にはそれを詠んだ一人が存在する。自分の人生を自分で生きている瞬間が、そこにある。歌を読むことは、そのことの承認作業に他ならない。
他人の人生を生きる方が楽な世の中だから、人生の”掛け替え”ばかりの世の中だから、歌を詠んでいる。小難しいことの分からない私に伝統から引き受けられるものがあるとすれば、その姿勢だけである。
一首でよい。詠み人知らずでよい。人生のあらゆる掛け替えよりも、ほんの少しでも長くこの世にとどまる歌を遺したい。私は自分の人生を生きたい。
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ 石川啄木『一握の砂』
初出:短歌現代 2010年3月号 「伝統を継ぐ若き作歌」